9月4日
会期も残す所あと一週間
最後の土曜 日曜は駆け込み客が
かなり訪れるだろう。
協会関係者は
普段よりかなり大目の予想として
65万人の入場者に対応できるよう
準備をした。
いままでの最高入場者はブリュッセル博の
70万人だったのだ。
一方警察も車の入場を三万台と予想した。
あけて9月5日
駐車場には開門の7時30分に
早くも2600台の車が押しかけた。
だが まだ これがこれから始まる
ドラマの幕開けになろうとは誰も
思いもしなかった。
やがて車の列は会場から6km離れた名神の
茨木のインターチエンジまで続き完全に交通
マヒ状態となった
その間にも電車 バスは会場へ人をどんどんと
運んでいく。
ここで交通管制本部は9時50分
名神の流入および流出の制限を始める。
ところが車はどんどんと増えていく。
バスはなかなか会場にたどりつけなくなり
茨木駅のターミナルは大混雑をした。
一方阪急 国鉄 北大阪急行の
各駅にも万博を
目指す人が どんどんとふくらんでいった。
なにしろ前売り券は払い戻さないという
協会の発表があったのだから。
13時15分交通管制を実施した。
15時を過ぎると会場に入れない車が溢れ出し
付近一帯の交通はついに停滞となった。
福岡市を越える観客が
万博につめかけたのだから
これは全国十番目の都市ということだ。
しかも観客は一時間に十万人の割合で
増えていくのだ。
会場滞留者も五十五万人を突破した。
これは鳥取県の全人口をこえる。
17時交通管制本部長は
緊急路線の確保として会場警察隊 関係警察署
方面機動隊を持って来場しようとする車両を
会場から遠ざける方針をたてた。
しかし夜間入場者が どんどんつめかけた。
万博の会場の収容能力は四十二万人だった。
夜間入場者は二十八万人にもなった。
人気パビリオンは六時間から七時間待ちでも
みんな並んだ。
19時45分ついに80万人を超えたが
観客は まだつめかけるのだった。
最終的に83万5832人となった。
一平方メートルに二人の計算になる。
残酷博と翌日の新聞には書かれた。
このころになると帰る客も押しかけ
中央口は完全につまってしまった。
お祭り広場では閉会式のリハーサルが行われ
満員の観客は そこへ逃げることもできず混乱は
さらに拡大していった。
一万平方メートルの広場にはたった30人の
ボーイスカウトが いるだけだつたのに。
駅では十分間に二千人しか人をさばくことが
できなかった。やがて専務や部長クラスも
総動員された。
20時に各人気パビリオンは札止めとした。
20時15分 ついに名神が道路の機能を
うしなったと判断され史上初の全車締め出しを
実施することとなった。
やがて会場は30m歩くのに25分かかるようになった。
21時になったが40万人が会場にいた。
夜間入場を28万人で制限しても
この人数になってしまった。
観客の方から歩く方向を一方通行にせよと声が
あがり群集自身がコントロールする場面もあった。
協会は各交通機関に連絡をし対策を練った。
閉場時間をまず一時間半延長した。
阪急電車がいち早く対応した。
この日の終電は25時だつた。
まず予定されていた保線工事を中止し
電車が運行できる体制を整えた。
ところが会場にはまだ14万人の群集がいた。
帰れぬ客のために どこからかラーメンなどの
屋台も くりだしフェンス越しに商売を始めた。
阪急は勤務を終了し帰宅した乗務員 駅務員 信号
関係者を呼び戻した。
車両は一旦降ろしたパンタグラフをあげ駅舎に
再び電灯を灯した。
足らない乗員には免許を持つ助役までも
動員された。
万博西口には10万の人が詰め掛けた。
警察の要請に対しさらに30分の延長をした。
しかしそれでも人は掃けない。
会場にはまだ五万人以上の人が
ごったがえしていた。
さらに延長をし最終は 26時を回った。
用意した切符もなくなり着払いの処置が
とられた。
阪急はさらに各駅に連絡をいれタクシーの確保
も行った。
さらに宝塚 神戸への連絡電車も運行した。
これは二年前から対策を練っていた成果でもあった。
最終列車が車庫に戻ったのは27時を軽く
まわっていた。
交通は19回の停滞を記録し延べ時間にすると
51時間40分となった。
結局帰れない4250
人が野宿をすることとなった。
石坂会長と鈴木総長も各部署をまわり職員を
励まし続けた。
鈴木総長は大阪市に協力を要請し毛布 食事
二段ベッドの手配をした。
パンとおにぎりと毛布は午前4時に届いた。
大阪府警の動員は1200人にもなった。
救急車の出動は145回。しかし渋滞の為
搬送は遅れた。
ついに鈴木総長がコメントを発表した。
それは明日はなるべく入場を控えて欲しい
というものだった。
ようやく夜が明け始めた。
警察がようやくおちつけたのは
午前6時を回っていた。
しかし それは実質最後の日曜日の始まりだったのだ。
協会関係者の祈りもむなしく各交通機関からは
昨日を上回るペースで観客が会場をめざしていることが
わかってきた。
警察は1200人の交通整理員を配備した。
また立体的な状況を把握するためヘリコプター二機を
飛ばした。
そこでパイロットが見た光景はまだ前日の入場者が
退場できないうちに今日の観客が駐車場へ入ってくる
異常事態だった。
車が動けないならそのまま車で夜を明かし入場しようと
考えるのは最もな話である。
駐車場には なんと午前3時から大量の車が押しかけて
きていたのだ。
まず南口第3駐車場を3時30分開門した。
続いて南口第4駐車場を4時に開門さらに西口駐車場
を5時27分開放したが 次から次へ押し寄せる車には
なすすべもなかった。
一方 電車バスの客も午前6時には中央口があふれる
ぐらい集まっていた。
駐車場から管制センターに次々に開門要請の連絡が入る
本来の開門の7時30分にはほとんど満車になってしまった。
ついに8時 協会は満車札止めを発表する。
9時緊急路線の確保に伴う規制で入場をやむおえず
断念した人たちと まだあきらめず会場を目指す人が
混乱に拍車をかける。
名神は天王山トンネルまで車で埋まってしまった。
ここで名神の5時間の完全閉鎖を決定する。
会場のゲートには五万人の人が詰め掛けていた。
開場を一時間早めとにかく会場へ誘導を始めた。
混乱を避けるため先に列を作らせた人気館の列も
7時にはアメリカ館 ソ連館の人垣はともに500mを
超えた。
すでにこの時バスに乗るだけでも一時間半
かかるようになっていた。
しかし電車は容赦なく客を降ろしてゆく。
やがて客は電車から降りれないようになってしまう。
機動隊が必死になってこれを誘導するが 二個中隊を
もってしても 押さえきれるものではなかった。
隊員は それこそ死に者ぐるいで整理にあたるのだが
次から次へと電車が人を運んでくるのだから。
午前10時 協会は北大阪急行に切符販売の中止を
要請する。
午前10時25分 6000万人目の入場者があった。
本来なら記念式典が予定されていたのだが
当然すべて取りやめとなった。
因みに賞品は世界一周旅行とパビリオンVIP
待遇見学だった。
11時阪急茨木駅に数千人の積み残し客が出る。
列の長さは600mを超えている。
バスが帰ってくる しかし満員だ。本来なら会場で
降ろしてかえってくるのだが あまりの人の多さに入場を
あきらめた人たちがユータンを始めたのだ。
バスには乗れない そう判断した人たちは会場目指して
歩き始める。
会場まで約3,5km 大人なら一時間かからない。
協会はガードマン860人を必死にかき集めたが
焼け石に水だった。
警察も400人の機動隊四個中隊を出動させていた。
11時20分ついに50万人を超える。
そしてわずか40分後 正午には60万人を超えた。
ところが観客はさらに増えつづける。
午後一時御堂筋線の梅田駅は一時切符の販売を
中止する。
駅自体が人ごみでマヒしていた。会場では史上最大の
滞留者を記録する。
その数59万人。
午後2時には とうとう70万人を越す。
ソ連館の行列に横入りしようとした男性が
観客にリンチにあう事件が発生した。
みんなのイライラはいつ爆発しても不思議ではなかった。
午後4時20分 北大阪急行は万博中央口への
電車を一つ手前の駅で降ろす非常事態処置をとる。
だが観客はあきらめず4kmの会場までの道を歩きだす。
鈴木総長は緊急事態発言をする。
これまで協会は入場制限をしない また前売り券の
払い戻しはしないと言い続けて来たのだ。
ついに夜間入場停止を決定する。
しかしゲートには夜間入場者がすでに
大勢集まっていたのだ。
しかも会場を目指す人たちにはこの処置は届かない。
ケ゜ートまで来て多くの人はその事実に気づくのだった。
当然入れろ いれないの押し問答が続く。
しかも自動販売機が約千枚の切符を発券してしまっていた。
5時30分に協会は入場券を すでに持っている人たちだけの
入場を認めた。
それは身の危険を感じたガードマンが
ゲートを勝手に開いてしまったからだった。
その数5200人。
このころから
前日の報道が効いたのか 観客はドンドン退出を始めた。
潮が退くように観客は順調に減っていった。
午後8時半 観客はわずか97000人となった。
前日の43万人 前々日の22万人に比べると
ガラカ゛ラになった。
普段なら3時間4時間待ちの三菱未来館なども
わずか15分で見れるようになった。
協会は残りの会期の入場制限を55万人と決めた。
また前売り券の払い戻しも決定し実施した。
未使用前売り券約8億円の内
払い戻されたのは約4億6千万。
つまり今でも箪笥の奥に未使用の券が残っている
可能性は かなり高い。
実は私も友人と土曜日に入場していた。
普段なら阪急で北千里まで一駅乗るのだが
こら あかんと歩いて帰ったのを思い出す。
もつとも古江台に住んでいたので十分ほどの
距離だったのだか。
万博の一番長い日
場内の様子を管理する
センターの全てのランブが
点灯しそれは消えることが
なかったという。
もはや道としての
機能を
うしなった。
普段はあまり混まない
日本館前てもご覧のとおり。
国鉄茨木駅は
バスに乗る人で
こんな状態となった。
入り口は完全に
動けない状態となった。
石坂会長も陣頭指揮に立ち
各部署を励ましながら
職員をねぎらう。
もはや人は人で
なくなってしまった。
群集のコントロールは
フランスデモ方式
と呼ばれる
方法で誘導をはじめた。
鈴木総長は
的確な判断を
現場を回りながら
出していった。
入ることも出ることも
できなくなった。
動けなくなった車の中で
泊まり翌日曜日に入場
しようと思考を方向転換
する人も続出した。
旅館にすら帰れない
人は会場で野宿する
しかなかった。
メーンの通りもただ
人が右往左往するしか
できなくなった。
ついに夜間入場が
禁止された。
群集は力づくで
ゲートを突破した。
日本万国博覧会の警察記録を
中心に公式記録と
朝日 毎日 日経各新聞の
記事より再構成致しました。
:殺人的な混雑風景
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